群馬県日光市足尾町に博物館があります。江戸時代から日本有数の銅山として日本経済を支え続けた足尾銅山の歴史と数多くの逸話が紹介、展示されていま。産出する銅は鋳造されて「寛永通宝」となって江戸時代の経済を、明治以降は日本が進めた富国強兵を支えました。
江戸の通貨、明治の富国強兵を支える
銅の産出量は日本全体の40%を占めたというのですから、当時の足尾の繁栄ぶりはちょっと想像できません。博物館には昭和のころの賑わいを伝えるお寿司屋さんや居酒屋さんのマッチが展示されています。数え切れません。展示される写真なども参考にすれば、足尾の夜はさぞかし楽しかったのでしょうね。
足尾銅山は江戸幕府直轄の後、明治に古河市兵衛が引き受け、古河財閥を創出する源になります。大正、昭和にかけて古河鉱山を母体に古河機械金属、古河電気工業、横浜ゴム、富士通、日本軽金属など世界企業を輩出するまで発展しました。
最先端の技術と人材を集め、世界企業を生む
博物館で掲示する資料を熟読して驚いたのは、ソニー創業者の井深大さんの父親である井深甫さんは古河鉱業日光製銅所の技師として働いていたことです。鉱山の経営は最新技術を結集して産出量を増やし、高純度の精錬を実現します。当時の最先端の技術や優秀な人材が集まり、次代の産業を生み出します。いまでいえばスタートアップ企業を生む土壌を果たしたのでしょう。まさに「必要は発明の母」です。
公害の調停に100年間の歳月
一方で、足尾銅山は日本で初めての公害事件の舞台です。古河鉱業が経営する足尾銅山が精錬の工程で発生する排煙、排ガス・水などの有害物質で周辺の山や川などに大きな被害を与え、田中正造さんの明治天皇への直訴などで知られています。調停が成立したのは1974年。1880年代から続いた公害は100年間の歳月を経て古河鉱業の責任として明確になっています。
先出の博物館の館長さんはとても熱心に説明してくれました。「足尾がこれだけ繁栄し、日本に貢献したことをしっかりと残し、伝えたい」ふるさと足尾に対する愛情が伝わってきます。だからこそ、公害の足尾だけとして知られるのは残念なのでしょう。
足尾銅山は今や、「わたらせ渓谷鉄道」の陰に隠れ、鉄道沿線の風光明媚な自然とトロッコ列車で有名です。足尾鉱山は観光地として多くの人を集めていますが、さきほどの博物館を訪れる人は少なく、銅山の衰退とともに足尾町の街並みは過疎化の波に洗われています。松尾芭蕉の句ではないですが、「夏草や兵どもの夢の跡」とはこういう感傷なのかと思います。
足尾と歩いて改めて感じるのは、「地域経済を支える企業が環境破壊を起こした場合、地域の住民は企業に対し大声で抗議できるのか」に至ります。農水産業以外に基幹産業がない地域で大きな工場、事業体は雇用を生み出し、飲食業などや税収なども加えれば地域経済への貢献は計り知れない存在です。生計を支える企業が無くなれば家族、集落はどうなるのか。被害を大きな声で訴えれば、周囲からどんな目でみられるのか。口を塞いでしまう場合はあるでしょう。
水俣、足尾という日本の公害史に残る地域でさえ、今の日本でどのくらいの人々が環境問題を考える際に水俣や足尾を時々でも思い出すのでしょうか。足尾町周辺には鉱山に関係する慰霊碑や遺構があちこちに建てられています。朝鮮半島からの強制連行した人々に対する慰霊碑もありますし、鉱員のみなさんが入ったお風呂の跡も残っています。
足尾を歩けば、近代日本が辿った明治以降の歴史、証言者が今でも待っています。博物館、風呂場などの遺構、慰霊碑。そして過疎化が進んだ町並み。渡良瀬鉄道を使って、耳を傾けてみてください。私たちがかじ取りを誤れば、日本の繁栄はどうなるのか。足尾銅山が自らから語りかけてくれます。
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