「廊下は走らない」かつて小中学校の廊下に張り出されていました。「言われなくても、わかっているよ」と生徒のほとんどが心で叫んでいましたが、友人らと遊んでいると廊下を走っている自分がいました。頭で理解しているけれど、実践となると話は別。大人の世界も同じ。政治資金の裏金問題、東京都知事選・・・。民主主義を貫くためとはいえ、「建前と本音」と称してズルする奴はかならずいます。
「廊下は走らない」と張り紙があっても、走ってしまう
「ESG」「SDGs」。この言葉も好き放題、使い回されています。意味するミッションは異なりますが、環境、サスティナビリティ、ガバナンス、差別や貧困の解消などを常に考え、行動しようという思いがアルファベット3文字に込められています。子供が廊下を走って衝突したら大怪我をします。企業や政府が暴走したら怪我で済みません。自然破壊や社会の混乱を招き、人間の存続が危ぶまれます。
ところが「ESG」を最近、見かけなくなりました。もう10年以上も企業活動の指針となるキーワードとして連呼され、もう十分に浸透したとの意見もありますが、直近でも相次ぐ企業不祥事を介してESGのイロハを理解していない経営者を目の当たりにすると、とても浸透したとは思えません。
そもそも無理と批判する声も高まる
そもそもESGなんて無理。地球環境や人権重視など建前に拘っていたら、対立や衝突を生むだけ。時計の針を逆戻りさせるように疎む声も高まってきました。一時期、経営者が口を開けば、触れるキーワードでしたが、今は人工知能(AI)に取って代わられています。ESG、SDGsを最も厳格に死守しなければいけない損害保険会社がビッグモーターなどで不正行為を働いていた事実だけでも、経営者の本音がわかります。
1年前、ESG投資を巡る象徴的な出来事がありました。2023年6月に開催された全米IR協会の年次総会で「RIP ESG」という言葉が飛び交ったそうです。RIPは「Rest in Peace」の略で、「やすらかにお眠りください」の意味です。お葬式などで使われる言葉です。つまり、ESGはもう終わりとの趣旨になるのでしょうか。
ブラックロックCEOは矢面に
確かにESGへの逆風は増しています。ESGやSDGsを絡めた投資案件は増え続けましたが、まるで反比例するかのように批判の声も高まっていました。例えば世界最大の投資会社ブラックロックのラリー・フィンク最高経営者(CEO)。投資先を選択する基準として最重視しましたが、投資利回りや企業経営の実情にそぐわないとの意見が沸き起こり、ESGを推進する姿勢は米国の政治家からも非難されました。ラリー・フィンクCEOは、より高い利回りを求める投資家、環境保護をさらに徹底すべきとする専門家の両側から攻められていました。
ESG投資を巡る批判で面白いのは、そもそも倫理・社会の発想を持ち込んだのが問題とする論点です。投資家はすでに地球環境や社会の安定性を重視しており、いまさら特筆する視点ではない。経済活動に社会倫理的な発想を持ち込めば投資や企業経営に支障をきたす。こんな視点です。
アダム・スミスは倫理を説く
「なるほど」と思いますか。経済合理性を最優先したビジネスは、ポルトガル、スペイン、英国など植民地拡大が始まった頃の重商主義に形成されています。当時ですら経済学の父、アダム・スミスが「国富論」で経済活動には倫理観が必要と説いています。利益最優先の発想は産業革命後、加速し、それが社会に多くの歪みを生みました。
21世紀の今は地球温暖化、貧富の格差拡大などとなって現れています。経済活動には倫理観は欠かせませんが、300年ぐらい前から必要性を唱えても、世の中には浸透しません。
ESG、SDGsを唱え続けるしかない
経済活動には常に「廊下を走ってはいけません」という張り紙が必要なのです。不要となる時は訪れないでしょう。嫌な顔をされても、ESG、SDGsと唱えましょう。「そんなの当たり前」と返事する企業や人間には忘れないように耳元で伝えましょう。